私はそれを見て愕然とした・・・
「!せ、先生!いったいこれは・・・」絶望と言う名の槍が私の身体を貫いた。全身の血液が逆流していく。天を走る稲妻の嵐の海の中に放り投げだされた小舟に乗っているように激しく平衡感覚を失った。足がフロアに着いているのか、雲の上にでもいるのか、そんな錯覚に陥った。妻は突然の宣告に蝋人形のような形相でただ持っていたハンカチで口をふさいでいた。その死刑宣告を受けた冤罪の囚人の家族のように、大きく開かれたその瞳からは滝のような涙がとめどなく溢れ出しているだけだった。
「これなんですが・・・」息子健太の主治医の先生は、デスク上のレントゲン写真を指さして、なにか説明を始めていたが、その健太のレントゲン写真の状態は、医学に素人の私が見ても、もう手の尽くしようがないほどになってしまっていたことがすぐにわかるほどだった。私は命よりも大事なものをこの先この病魔に奪われてしまうのだ。ついに妻が雪崩のように膝を落とし、診療室全体を打ち壊すような慟哭の叫びをあげた。私たちは大切な一人息子の命の砂時計を医師から渡されたのだ。1秒1秒がこんなに重いとは・・・
「・・・・・・・・・で、どうなされますか?」小太りのその医師は、顔は真っすぐ私たちに向けていたが、その視線は私たちに同情するように俯いていた。私は無理を承知で、
「せ、先生!健太は、健太を何とかしてください!」溺れる者が藁にもすがる様に私は医、師に詰め寄った。しかし、私たちにしっかりと向けられていた医師の顔には、健太はもうなす術がないことをどんな言葉よりも物語っていた。
「・・・お気の毒ですが・・・・・」医師の隣にいた看護婦も、身体を反転させて泣いている。そして妻の鳴き声は悲鳴のように鳴り響き、その場の空気を切り裂いた。逆に私は涙すらでなかった。夢であって欲しかった。しかし、私は研ぎ澄まされたガラスのように恐ろしく冷静だ。そう、これは現実だ、逃げることも隠れることもできない、私たち夫婦に訪れた悲劇の始まり・・・地獄の血に飢えた悪魔達が私たちをみて高笑いをしているように鼓膜が破れそうな耳鳴りがする。私は耳を塞ぎ、頭を抱えうな垂れた。医師と看護婦が私たちの心情を察したかのように、私たちに一礼すると静かに診察室から出ていってしまった。そこには泣き崩れる妻とは対照的に、暗闇の絶望に墜とされて身動きすらとれない私たち夫婦だけが取り残された。まるで孤独の牢獄にでも放り込まれたような気分だった・・・
朝食を終えて、おれはいつものように窓の景色を見ていた。もう桜の季節かぁ・・・病院の庭に植えられている桜を見ながらおれは呟いた。ここにいきなり入院させられたのは半年ほど前だ。来月は4月で、おれは高3になり、15日には誕生日を迎え、18になっているはずだった。もしこの病気が治っても留年決定だし、甲子園のマウンドに立つことを夢見て練習に明け暮れた青春の日々も、文字通り「夢」に終わってしまった。なによりもうずいぶんベッドで寝た切りだったので、部活で鍛えた筋肉はすっかり隆起を失くし、文学少年のように細くなり、照り付ける太陽に焼かれた褐色の肌は青白くなり、野球部の代名詞とも言える坊主頭もすっかり普通の髪型になってしまって、野球少年の面影は風に飛ばされた木の葉のようにどこかにいってしまった。まるで人間が180度変わってしまったようだ。始めは部活仲間やクラスの友人達がちょくちょく見舞いに来てくれたが、今は閑古鳥が鳴くように誰もおれの見舞いに来るものはいなくなった。彼女にすらおれは捨てられたらしい。
入院して2週間ほど経ったころ、友人からおれの彼女がどうやら3組のサッカー部の奴とつき合いだしたらしい、と聞いた。その証拠にあいつはそれ以来おれの見舞いには来なくなった。野球部からサッカー部へお乗り換えかよ・・・おれは自嘲するしかなかった。その話をもってきた仲間たちの前では、
「そっか、そんな軽い女なんかノシつけてくれてやるよ、おれのオフルだけどな!」と言って笑って見せた。仲間たちは複雑そうな表情で笑っていた。その姿もおれを惨めにさせた。女は傷ついた時は友達の前でも泣きまくって慰めてもらうが、男は変なプライドがあって、自分の弱みを見せたがらず、つい強がってしまう。まさにその時のおれがそれだ。おれが彼女を取られて内心悲しみと寂しさで満ちていたが、強がって笑った。しかし、奴らも男だ、おれが心から笑っていないのには気づいていただろう。だから誰もおれに慰めの言葉をかける奴はいなかった。おれの男としてのプライドを傷つけまいとして・・・・
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